2020年3月27日金曜日

阪神 石崎 ⇔ ロッテ 高野

トレード成立日 2019 Jul 3



成立の経緯

中継ぎ陣の強化の為ロッテが石崎を求め、阪神は高野を指名。


成立時の評価

阪神ファンは、日本代表にも選ばれた経験のある石崎に比べ高野は実績面で劣り、なおかつ野手の強化が叫ばれていた為成立時に訝しがるファンも多かったが、一部からは高野のスラットPとしての適性を評価したのではないか? という声もあった。

ロッテファンは、実績の差やブルペン陣に居ないサイドの剛球投手であるという事から好意的な反応が多かった。

巨人 和田 ⇔ 楽天 古川

トレード成立日 2019 Jul 7



成立の経緯

岩見、燿飛ら若手長距離砲が伸び悩んでいた楽天と先発陣が手薄になっていた巨人の間で利害が一致。


成立時の評価

楽天ファンは、和田の獲得に対しては評価していたが、2018年に6勝 98回 ERA 4.13を記録していた古川と一軍で全く実績のない和田では不釣り合いではないか? という論調だった。

巨人ファンは、守備難もあり一軍で中々居場所を確保出来ずにいる間に加藤、山下という年下で打撃の良い選手が台頭してきた事により期待の若手枠からは外れつつあったので、古川という和田と同年代ですでに一軍での実績もある先発を獲得できた事に対し、好意的な反応が殆どだった。

ソフトバンク 中田 ⇔ 阪神 無償

トレード成立日 2019 Oct 26


成立の経緯

ソフトバンクに於いては戦力構想から外れた中田だが、他球団では戦力になり得ると判断。
リーグの違う阪神への無償トレードとなった。
FAで来てくれた選手への礼儀という側面もあるだろう。


成立時の評価

双方のファンはともに好意的に受け止めていた。

ロッテ 涌井 ⇔ 楽天 金銭

トレード成立日 2019 Dec 18


成立の経緯

先発ローテとして回りたい涌井に対し、ロッテは若手先発陣の台頭により翌年のローテ入りは確約出来ず、そこに対し楽天からのトレード依頼が入り成立。

涌井と釣り合う交換相手の都合がつかず金銭での成立となった。


成立時の評価

ロッテファンは、前年度オフから度々涌井の先発希望によるトレードでの放出が噂されていた為、出ていく事に関しては概して冷静だったが放出先そして金銭でのトレードには感情を露にする人が多かった。

楽天ファンは好意的な反応が殆どだったが、金銭というファンにとっては見えない形での損失なのでむべなるかな。

2017年11月6日月曜日

Taiko Super Kicksというバンドについて

Taiko Super Kicksというバンドがとても素晴らしいので、このバンドに対する思いの丈を綴りたいと思います。

彼らのパブリックイメージは、

「グッドメロディを歌うギターバンド」

と言ったところだと思うのですが、私の理解は違うものです。
私は彼らを

「グッドリズムなドラムバンド」

だと思っているのです。

そう。彼らを語る時に語るべき事の一つに彼らのリズムに対する意識・姿勢があると思うのですが、その部分に触れている文章にとんとお目にかかれないので、自分で書いてしまおうと思います。
リズムに耳を向けずに彼らの音楽を聴くのは、とても勿体の無い事です。
ですから、ひとまずこの記事を読むのは中断して、散歩でもしながらリズムを重視して彼らの音楽を聴いて来て下さい。


私はその間にDS版ポケモン金をやって来ます。




































聴いて来ました? どうでしたか? 彼らの音楽は。
ギターバンドとカテゴライズするには余りにもリズムが凝っていませんでした?

特にドラムの小林希のリズムの組み方は特筆すべきです。
私は、彼女はビート・ダンス・クラブミュージックのリスナーではないか? と疑っているのですが、どうでしょう?
そして彼女のドラムに絡む伊藤暁里・樺山大地のギターに大堀晃生のベース。

やはり彼らをギターバンドと呼称するのは、彼らのある一面を表してはいるものの、とても大事な面を無視している様に感じます。

ではなぜ彼らのとても大事な面を無視した「ギターバンド」という呼称が使われるのか。
それは、それぞれの奏者がそれぞれの楽器で最大限の奉仕をメロディに対して行なっているからです。
そう。彼らの凝ったリズムの組み方は全てメロディに奉仕する為に存在しているのです。
つまり、彼らの音楽の主役はメロディなのです。
彼らの音楽のメインロールを張っているものだけを取り出せば、彼らは

「グッドメロディを歌うギターバンド」

なのです。

しかし、誰が主役かだけで作品を判断する事はキムタク主演のドラマは全て同じものだと見做すようなもので、盲目に過ぎます。
私たちが注意を払うべきなのは作品の全体で、主役のみでは無いのです。
特に彼らは4人組バンドです。即ち、ボーカル含め音は5つしか入っていない訳ですから、全体は比較的確認し易いはずです。(実はアコギが入っていたりもするんですが)

散歩しながら聴いた彼らの音楽はどうでしたか?

 今、イヤホンから流れる彼らの音楽の全体はどうですか?

貴方はTaiko Super Kicksをどの様なバンドだと思いますか?

私は

「グッドメロディを歌うギターバンド」

では明らかに説明が足りないと断言します。

2017年6月7日水曜日

秘数 2+1 リリック起こし

N/K

check ×4
uno dos tres
freestyle yeah 
I get freestyle 
愛がフリースタイルの良い上司
たとえばアウン=サン=スーチー女史
とか虫とかが沢山いるから
屋外のフェスは素晴らしいとしか言えない
ただ今は屋外ではない
ただいま曙橋Studio FARVE
防衛庁あたりただいまStudio FARVE

あくまで数字の話であって
悪魔の数字の話ではない
あくまで数字として21というのは
近隣の20や22と比べると格段にカッコいい
核弾頭もカッコいい
永遠に発射されない為に製造されるミサ
イルなんてなんてイルな兵器なんだろうか

ただいくらカッコいいからと言って21世紀が100年も続くのは長過ぎるんじゃねーか
ジャン=リュック=ゴダールは1世紀なんてお婆さんが3代変われば終わる長さだと言った
俺たちは21世紀最初のお婆さんを探しにこのアルバムに集合することにした

正直に言うと
掃除機に言うのではない
確かに掃除機は
俺が40代から50代になるまでの間に眼を見張る様な進化を遂げたが
まだ直接話しかけられるまでには至っていない
だから掃除機にではなく
正直に言うが俺は21世紀が死ぬほど嫌いだ
ここにいる全員が死ぬ世紀だから
というのもあるが
それがこんなに早くもクソの様な世紀になるとは生まれた時には夢思わなかった

俺が生まれた時にはオリンピックで
2度目など出来るわけがない
もし東京でそんなことを強行すれば悪魔がやってくるそのことだけは生まれながらにしてわかってはいたが貴様らはやるつもりだ

今日俺が21世紀最初のお婆さんを探しに来たのは
彼女が21世紀を終わらせる21世紀3人目のお婆さんのお婆さんだからだ
俺のお袋もくたばった時はお婆さんだった
親孝行がしたい
しかしいつ死体になるかは誰にもわからない
たった今の視界はとても素晴らしい
We are JAZZ DOMMUNISTERS we will thanks you guys 

谷王

call me 谷王
が引き継ぐマジックナンバー2+1

もう21年以上前21歳の俺が渋谷のクラブに
友達の友達の友達つまり他人のライブを初めて1人で観に行った時のこと
東横のホームがまだ2階にあった頃
宇田川町がレコード屋だらけだった頃
円山町の小さなクラブの狭い階段を降りて
重たい扉を開ける

真っ暗なフロアに流れている知らないダンスミュージック
もう吸い慣れたタバコ
甘いジントニック
ココナツの香りのキャンドル
低いガラステーブル
ひんやりした革張りの赤いソファー
流れっぱなしのトイレ
ドラムンベースの爆音
缶ビール 缶ビール 缶ビール

いつの間にか回っていたミラーボールの光に誘われる様に1人フロアに降り
1人ビートとリズムに眼を閉じる
21時のクラブの空気
まだ始まったばかりの夜の響き
21歳の街での暮らし
1人飲み干すチューハイとのどごし
低い温度でゆっくりと背中を炙られていく様な毎日
思い出す初めて1人で踊ったフロア
初めて1人で踊った音楽

20世紀の21歳から21世紀の21歳に祝福を送ろう
20世紀の21歳が君の21世紀にこの夜を送ろう

2016年9月19日月曜日

セッション感想

この映画の主題は、

第二のチャーリー・パーカーを育てるためには体罰は許容され得るのか?

であり、作劇上それは許されるとまではいかなくとも、少なくとも理解し得るある種の必要悪のような思想として描かれ映画は幕を閉じます。

このエンディングが巷間で結構マジで受け止められてるっぽくないか? まー少なくとも荒唐無稽なものとしては受け止められていないぞ? と思いこの記事を書いています。

第二のチャーリー・パーカーを育てるために体罰は許容され得るのか?は、例えば、第二のマラドーナ、メッシ、ペレ、王貞治、マイケル・ジョーダン等を育てるためには体罰は許容され得るのか?と同義であり、もしも各スポーツ映画の結末がセッションと同様のものであれば果してその映画は現在のセッションの受け止められ方と傾向の評価を得られていたのかどうかというと、それはあり得ないだろうと思う。

それに、フレッチャーが主人公に与えた苛烈な教育内容は彼が話題にしていたチャーリー・パーカーの挫折と成長の物語とはズレています。パーカーにはあんな鬼教師はついていなかったし、彼の練習は屈辱を晴らすまいとした彼自身の選択です。あの逸話を持ち出すのであれば、フレッチャーは主人公を自ら練習の鬼になる様に誘導すべきです。

この逸話の適当な持ち出し方や元教え子の死亡原因の隠蔽の2つでフレッチャーが信用ならない男であると感じるはずです。

にも関わらず、セッションを肯定的にみた人の殆どはジャズフェスのバーでのフレッチャーの告解に絆されてしまっている。

あのシーンは完全にサイコパスの自分を騙しきったうえでの自己弁護以外の何物でもないはず。

ラストシーンで主人公はフレッチャーの哲学を受け継ぎ、映画は終わります。が、私にはあれは、例えるならば、どちらが正当なナチズムか? を争っているようにしか見えず、結局のところ、思想的には間違っているんですよ。