2016年9月19日月曜日

セッション感想

この映画の主題は、

第二のチャーリー・パーカーを育てるためには体罰は許容され得るのか?

であり、作劇上それは許されるとまではいかなくとも、少なくとも理解し得るある種の必要悪のような思想として描かれ映画は幕を閉じます。

このエンディングが巷間で結構マジで受け止められてるっぽくないか? まー少なくとも荒唐無稽なものとしては受け止められていないぞ? と思いこの記事を書いています。

第二のチャーリー・パーカーを育てるために体罰は許容され得るのか?は、例えば、第二のマラドーナ、メッシ、ペレ、王貞治、マイケル・ジョーダン等を育てるためには体罰は許容され得るのか?と同義であり、もしも各スポーツ映画の結末がセッションと同様のものであれば果してその映画は現在のセッションの受け止められ方と傾向の評価を得られていたのかどうかというと、それはあり得ないだろうと思う。

それに、フレッチャーが主人公に与えた苛烈な教育内容は彼が話題にしていたチャーリー・パーカーの挫折と成長の物語とはズレています。パーカーにはあんな鬼教師はついていなかったし、彼の練習は屈辱を晴らすまいとした彼自身の選択です。あの逸話を持ち出すのであれば、フレッチャーは主人公を自ら練習の鬼になる様に誘導すべきです。

この逸話の適当な持ち出し方や元教え子の死亡原因の隠蔽の2つでフレッチャーが信用ならない男であると感じるはずです。

にも関わらず、セッションを肯定的にみた人の殆どはジャズフェスのバーでのフレッチャーの告解に絆されてしまっている。

あのシーンは完全にサイコパスの自分を騙しきったうえでの自己弁護以外の何物でもないはず。

ラストシーンで主人公はフレッチャーの哲学を受け継ぎ、映画は終わります。が、私にはあれは、例えるならば、どちらが正当なナチズムか? を争っているようにしか見えず、結局のところ、思想的には間違っているんですよ。